『とんかつ万平』

 秋が深まってきた。冷え込んでくると、気になってくるのが冬の食材だ。冬には食べたいものがいろいろある。その中で、一番はやっぱ魚ですかね。河豚にクエ、脂ののった寒ブリも旨い。学生の頃、福岡の友人の家にお邪魔したことがあるが、その時出された脂ののったブリのステーキは未だに舌がその味を覚えていて、そのことを思い出すと頭にその味が染み出てくるかのようである。
 そしてもう一つ忘れてはならないのが、牡蠣だ。牡蠣にはいろいろな思い出がある。大昔パリのレストランでは、その辺りの客がみんな2ダースずつくらい食べていて驚いた。30年くらい前、ロシア(当時はソ連)大使館の近くにあった『ミレイユ』という南フランスの田舎料理を売り物に掲げていたレストランで、牡蠣を注文したら、メートルが申し訳なさそうな顔をして、曰く。
「あちらのお客様が2ダース注文されまして」
こうした経験以来「牡蠣は2ダース食べるもの」と、いう格言が身に染み付いた。わけではないが、ま、あっちの人は食べますね。
 生牡蠣であっても日本人は日本人らしく食べる。私の場合、自宅で食べる場合は、ポン酢に柚子胡椒少々だ。何もつけずレモンをしぼって食べることもあるが、今のところポン酢に柚子胡椒少々が一番旨いと思っている。
 さて生ではないが、時々無性に食べたくなるのがバター焼きである。

 そこで出かけたのが神田の『とんかつ万平』だ。地下鉄丸ノ内線「淡路町」駅から徒歩3分、神田須田町にある。蕎麦の『まつや』や『神田やぶそば』の近くにある昔ながらの店。寒くなってくるとこんな店が恋しくなるのである。
 この店は小さな店なので、すぐにいっぱいになる。席数は4人掛けのテーブル席が4つほど。だから時間を見計らっていかなければならないのだが、これがなかなか難しく、早く行っても既に満員だったり、ある時はガラガラだったりと予測不可能なのである。したがって行きたいときに行くしかないのだが、やはり12時過ぎると間違いなく混んでいますね。
 本来お客はトンカツを食べにくる。あっさりと揚がったトンカツも悪くない。名店と言われるような店のトンカツとはまったく別物だが、何かしら心にしみるような味なのだ。
 11月の半ば、12時前に訪れた時は意外にも客は誰もいなかった。そこで早速壁のメニューに目を走らせる。牡蠣の季節となる11月頃からこの店では牡蠣を出す。あるじゃないですか。カキフライに牡蠣のバター焼き。どちらも1600円。
 この日の目当てはバター焼きだったので早速注文した。

 待つこと3分。熱々であることを彷彿とさせる湯気と共に、ステンレスの平皿に盛られた牡蠣のバター焼きが登場してきた。横にはたっぷりのキャベツのスライス。味噌汁にご飯、お新香とくればもう完璧な昼の定食。
 とにもかくにも、その熱々をすぐさま頬張ることに。ガブリと噛むとたっぷりの牡蠣のエキスがバターの風味とともに口中に流れ込んできた。
 嗚呼、これぞ至福。これぞ口悦。バターで焼いた牡蠣ってなんでこんなに旨いのか。その牡蠣のぷりぷりと膨らんだ様の見事なこと。なんと幸福そうな姿形であることか。そして、なんと美味であることか。止められませんね、まったく。
 一口噛めばご飯が進み、ご飯が進めばまた牡蠣が欲しくなる。牡蠣に飽きたら味噌汁を一口。これまた、白味噌にちょっと出汁が利いていて、飲むと甘美。これは、幸福の二重奏、いやロンドともいうべきか。
 などと頭が至福の草原を駈け巡っている間に、あれま、いつの間にか牡蠣のバター焼き定食は終焉を迎えていたのでありました。
 いや、満腹満腹。一息ついて、ふと周りを見ると別にみんなが牡蠣のバター焼きを食べているわけでもなく、皆淡々と昼のロースカツ定食に挑んでいるのでありました。牡蠣に思い入れがあるばかりに周りが見えなくなっていたが、ま、当然と言えば当然。
 なるほど日常ってのはこうして淡々と過ぎて行くんであります。

 

了 (上へ)

 



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